ノンクリスチャン向けの聖書の学び会 Step4

こんばんは、うさぎ飼いです。

東大本郷キャンパス近くのキリスト教系の東大YMCA寮で、ノンクリスチャン向けの聖書の学び会を不定期に開催しています。

Step4 「神への道」

Step4の概要

今回も使ったテキストはこちらです。

今日はStep4でした。ステップ4の概要は、こんな感じです。

  • イエスキリストが肉体を持って生まれたこと
  • 三位一体の神
  • 神への道

Step4の中には、イエスキリストがひとの罪のために肉体を持って産まれたこと、三位一体などの深い内容も含まれてましたが、これまでのステップでもすでに話されていたということもあり、今回のディスカッションは主に「神への道」という部分でした。

神さまを信じなければ幸せになれない?

ノンクリスチャンにとって、

「あなたは罪人です」

「神さまを信じなければ、幸せになりません」

こういう言葉はとても抵抗があると思います。

自分が一体何をしたというのだ。。。そしてクリスチャンというのは一体どこの立場から何を言っているんだ、と。

今回いただいた質問はこんな感じです。

キリスト教を信じてなくても素晴らしい人がいるし、信じていなくても幸せになることは、あり得るのではないですか?

キリスト教を信じていなくても素晴らしい人はいるし、幸せな人がいるのでは、と疑問が尽きないかもしれません。

こういう疑問は必ず出てくるものなので、積極的に発言してもらってよかったです。

教会の宣教師の先生、クリスチャンのみんなの回答はこんな感じでした。

神さまを信じていない生活というのは虚しく、どんなに智慧や財産があっても同じこと。それは、人間が霊的な存在で、神さまが人間を作ったから、神さまに頼って生きていない状態は、親から離れた子供のようになってしまっている状態。楽しいことがあるかもしれないけれども刹那的。

「楽しい」「幸せ」の解釈は人それぞれ。神さまを信じないからと言って、全く楽しいことがないのかと聞かれると、そうではないかもしれません。

ここでいう「幸せ」は、心の底から得られる平安、安心感のようなもので、神さまを信じることによってのみ得られるものですという解釈が一般的です。

それは、神さまが人間を作られたという所から来ていて、親の元に来た安心感と似たようなものと言えるのではないでしょうか。

箴言などを読むと、智慧がどんなにあってもそれが小さいものなのかということを感じざるを得ない、であれば自分の思いや知識のために生きるということよりも、霊的な方を重んじるべきだと思った。

他にも、自分の智慧が以下に小さい者だったかということなど、自らの体験の中で、霊的に生きることの大切さを実感した人もいます。

神さまを信じなければ幸福にならない、という言葉は、クリスチャンがノンクリスチャンを裁くような意味合いはなく、聖書の言葉に基づくもの。
例えば、罪から来る報酬は死です(ローマ6:23)など。そしてクリスチャンは罪がないのではなく、罪を許されている存在であって、神さまを信じることを選択したという存在であるだけで、罪人であることに変わりはない。むしろクリスチャンが伝導するのは、本当に良いものだから身近な人にも知らせたいという単純な動機。

ぶどう農園の労働者の例えから

ぶどう園の労働者の例えから、こんな回答もありました。

・ぶどう園の例え(マタイ20:1~16)では、あとから来た人も同じ報酬を受け取ったように、天国には後から来た人が先になることがあるという話があるように、自分たちが優先順位が高いという意識はない。
・罪人と言われると、犯罪者であるかのような言い方で、受け入れがたい気持ちがあるかもしれないけれど、ここは文字通りの意味で用いられることが多い。

1 「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。

2 主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。

3 また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、

4 『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。

5 それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。

6 五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、

7 彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。

8 夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。

9 そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。

10 最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。

11 それで、受け取ると、主人に不平を言った。

12 『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』

13 主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。

14 自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。

15 自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』

16 このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」

マタイによる福音書20章1〜16節

という感じで、言葉の解釈にもよりますが、どのように解釈していくと良いのか、ということがメインのテーマでした。

クリスチャンがノンクリスチャンを裁くイメージを持っている人もいるかもしれませんが、あくまで裁く権利を持っているのは神さまだけ。

クリスチャンは神さまの哀れみによって救われた存在で、言わばラッキーな存在。この福音を1人でも多くの人に、という気持ちによるものが大きいのではないかと思います。

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Step5に続きます~。

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