ノンクリスチャン向けの聖書の学び会 Step5


こんにちは、うさぎ飼いです。

東大の本郷キャンパスのすぐ近くにある東大YMCA寮というキリスト教系の寮で、ノンクリスチャン向けの聖書の学び会を開催しています。

うさぎ飼いはクリスチャンですが、毎回初心に返ることが多く、クリスチャンにとっても学びが多くて、毎回濃厚で充実ていて、感謝!

今回も使ったテキストはこちらです。

このテキストの主な趣旨は、キリスト教を全く知らない人が信仰に至るまでの最低限の知識を身につけることで、12回のステップに分かれています。

Step5 「死に至る病」

今回は、Step5の「死に至る病」についてです。

Step5の概要

Step5では、私たちの罪について、罪ゆえの苦しみについて、神の律法とはどのようなものか、という内容でした。

  • 私達はみな罪人である
  • 罪を行なっている人は、みな罪の奴隷である
  • 罪ゆえの苦しみとは、心に平安がなくなること、神から離れること
  • 罪とは律法に逆らうことであり、殺人や姦淫だけではなく、兄弟を憎むもの、情欲を抱くもの、正しいことを知っていながら行わないことさえも含まれる
  • 神の律法とは、①心尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして神である主を愛すること、②隣人を自分自身のように愛すること

はい、今回もかなり過激な内容ですね!(笑)

何か悪いことをしてしまうことは罪というイメージがつきやすいと思いますが、何もしないことさえも罪、身も蓋も無い話ですね。どう頑張ったって罪人ではないですか。

私たちに罪の性質があるのは、最初の人類であるアダムさんが、善悪の実を食べてしまったことによります。(原罪)

アダムが人類に罪と死の性質をもたらしたけれども、イエスキリストがその人類を罪から救い命を与えてくれた、というのがキリスト教です。

罪の重さについて

今回いただいた質問はこんな感じです。

罪には色々なものあるようですが、罪の重さにランクはあるのですか?

難しい質問でした。みんなの回答はこちらです。

・聖書の解釈からは、等しく人々は罪人
・罪を知っていて犯してしまうことは罪が大きいかもしれないけれど、罪の小ささや悔い改めの速さで天国に行きやすいということはない
・人は礼拝する生き物なので、情欲であったり、お酒であったり、何も礼拝することがないという状態はなく、神さまを礼拝していないということは必然的に罪を犯す性質をもっている。最も重い罪は精霊を汚すことで、神さまを受け入れない、神さまの方に向かわないということ

うさぎ飼いはクリスチャンのみんなの回答の深さに感動しました。(笑)

聖書の有名な例え話を2つ紹介したいと思います。ぶどう農園の例えと、放蕩息子の例え話しです。

ぶどう園の労働者の例え

1 「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。

2 主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。

3 また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、

4 『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。

5 それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。

6 五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、

7 彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。

8 夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。

9 そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。

10 最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。

11 それで、受け取ると、主人に不平を言った。

12 『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』

13 主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。

14 自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。

15 自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』

16 このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」

マタイによる福音書:20章1〜16節 「ぶどう園の労働者の例え」

ぶどう農園の例えのように、早く信じた方が天国に行きやすい、とは書かれていないようです。

ただ、若いクリスチャンが早くから信仰しているのは、心に平安が与えられる時間がより長く、より神さまと交わる時間が長く時間をかけてキリストの似姿に変えられていく、神さまに良い僕と言ってもらえる、ということがあるからです。

放蕩息子の例え

放蕩息子の例えからも話がありました。

11 また言われた、「ある人に、ふたりのむすこがあった。

 12 ところが、弟が父親に言った、『父よ、あなたの財産のうちでわたしがいただく分をください』。そこで、父はその身代をふたりに分けてやった。

 13 それから幾日もたたないうちに、弟は自分のものを全部とりまとめて遠い所へ行き、そこで放蕩に身を持ちくずして財産を使い果した。

 14 何もかも浪費してしまったのち、その地方にひどいききんがあったので、彼は食べることにも窮しはじめた。 

15 そこで、その地方のある住民のところに行って身を寄せたところが、その人は彼を畑にやって豚を飼わせた。

 16 彼は、豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいと思うほどであったが、何もくれる人はなかった。

 17 そこで彼は本心に立ちかえって言った、『父のところには食物のあり余っている雇人が大ぜいいるのに、わたしはここで飢えて死のうとしている。 

18 立って、父のところへ帰って、こう言おう、父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。

 19 もう、あなたのむすこと呼ばれる資格はありません。どうぞ、雇人のひとり同様にしてください』。 
20 そこで立って、父のところへ出かけた。まだ遠く離れていたのに、父は彼をみとめ、哀れに思って走り寄り、その首をだいて接吻した。

 21 むすこは父に言った、『父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。もうあなたのむすこと呼ばれる資格はありません』。 

22 しかし父は僕たちに言いつけた、『さあ、早く、最上の着物を出してきてこの子に着せ、指輪を手にはめ、はきものを足にはかせなさい。

23 また、肥えた子牛を引いてきてほふりなさい。食べて楽しもうではないか。 

24 このむすこが死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから』。それから祝宴がはじまった。

 25 ところが、兄は畑にいたが、帰ってきて家に近づくと、音楽や踊りの音が聞えたので、 

26 ひとりの僕を呼んで、『いったい、これは何事なのか』と尋ねた。

 27 僕は答えた、『あなたのご兄弟がお帰りになりました。無事に迎えたというので、父上が肥えた子牛をほふらせなさったのです』。

 28 兄はおこって家にはいろうとしなかったので、父が出てきてなだめると、 

29 兄は父にむかって言った、『わたしは何か年もあなたに仕えて、一度でもあなたの言いつけにそむいたことはなかったのに、友だちと楽しむために子やぎ一匹も下さったことはありません。 

30 それだのに、遊女どもと一緒になって、あなたの身代を食いつぶしたこのあなたの子が帰ってくると、そのために肥えた子牛をほふりなさいました』。 

31 すると父は言った、『子よ、あなたはいつもわたしと一緒にいるし、またわたしのものは全部あなたのものだ。 

32 しかし、このあなたの弟は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのはあたりまえである』」。

ルカによる福音書:15章11〜32節 「放蕩息子の例え」

例えどんなに自分が罪を犯し、放蕩息子の様に変わり果てた姿になっても、放蕩息子の父のように、帰って来た息子を走って行って抱きしめる、というのは神さまの愛の例えです。

ここでは放蕩息子が実際にいつ帰ってきたのか、いくらお金を使い果たしたのか、放浪先で一体何をやらかしたのか?などと言及されたりはしていないことがポイントで、

父は「○○万円しか使わなかったから、まあ許してあげるよ」なんて尺度はもっていません。

ただ父の元に帰って来たこと、それだけを全力で喜び向かい入れています。私たちは罪の大小よりも、父の元に立ち返るということを何よりも神さまが望んでいるということがわかります。

神さまの道を歩くとは

他には、こんな質問をいただきました。

神さまの御心を歩んでいるというのはどのようにわかるものですか?神さまに聞くとは?

日常の小さいことから、人生の大きな決断など、日々選択を迫られる中で、自分は本当に神さまの御心を歩んでいるのか?という疑問はクリスチャンでも尽きないです。

いただいた回答はこんな感じです。

クリスチャンがクリスチャンである最も大きい要因は「聖霊が自分に働いている」と実感出来ること。神さまの意思が聖霊を通して自分に伝えたいことはなにか、聖霊を通して神さまに話しかけたりお願いしたり、自由に神さまと交わうことができること。神さまとの交わりの中で答えを聞くことができること。

神さまに直接語りかけることが出来るのが、クリスチャンの特権です。迷った時も、いつも神さまに問い、投げかけ、待ち、考えている人が多いのではないでしょうか。

自分の求めた答えが欲しいと願ってしまったり、早く答えて欲しいと思ったりしてしまうことがあるけれど、結局神様の用意した道が自分にとっていい道であって、できるだけそれに従いたいと思いながら祈る。そして、 大体は自分の欲しい道、求めた回答は得られない。
でもそれが神さまが自分に用意された道だということがわかると、だんだん自分本意なお願いごとなどをしなくなってくる。信仰は経験則的側面もあり、祈って求めて応えられる、神さまが自分に備えてくれたものを実感するということの繰り返し。

箴言16章に書かれているように、人が心に思った計画を確かにしてくださるのは、神さまです。神さまに委ねること、そして自分の思い計ったことが、神さまにとって完全な形で成就していくことを体験していきます。

それが当初の予定とは違ったとしてもです。

1 心にはかることは人に属し、舌の答は主から出る。
2 人の道は自分の目にことごとく潔しと見える、しかし主は人の魂をはかられる。
3 あなたのなすべき事を主にゆだねよ、そうすれば、あなたの計るところは必ず成る。

箴言16章1〜3節

個人的には、自分が神さまに応えられたと感じるのは、自然とその道に進むように整えられることで、自然と誰かの口を通して何かを聞くことがであったり、無理をしなくても事が成就することであったり。
偶然の産物も含めて、神さまが時にかなってその人その人に用意された事をなしてくださる。

神さまがその時にふさわしい道を与えてくださったと感じる考え方は個人的な部分が大きいのではないでしょうか。

一方でこんな意見もありました。

神さまが備えてくださる道だと信じ、盲目に進むことは危険でもある。神さまはそれぞれのタイミングでことをなしてくださる方なので、常に求め続けて歩むことが大事。

祈って応えられる、という経験は人それぞれ。いろんな人の証を聞いてみたいですよね。

クリスチャンになると罪の告白、自分の言いたくなかったことや隠したかったことなど色々言うようになることが多いみたいです。私たちは救い主ではないので、完全に人の重荷を背負うことは出来ないけれど、神さまの愛を知ることで、神さまと自分の関係だけではなく、人と人との繋がりも深くなることになります。

人と人格的に関わりを持つ、ということは神さまが私たちにしてくださったことそのもので、それこそクリスチャンがキリストの似姿に変えられていく、ということの一歩なのかもしれません。

神さまの恵みと天国について

天国、つまり神さまと共にいるということは、まるで恋人とずっと手を繋いでいるかのような幸せな状態であるというお話もありました。

罪をどれだけ意識できるかということが神さまの愛をより深く理解することに繋がります。一方で、罪だから何かをしてはいけないという気持ちに囚われるのではなく、神さまに与えられた賜物を目一杯使うことも大切。

それぞれが与えられた賜物を使い、神さまを賛美することが出来ます様に!

これから聖書を交流する事を検討されているかたは、是非、話題の新しい訳をご検討ください〜。

Step6に行く前に、次回はGW特別企画に続きます。

余談。本郷通りの桜が綺麗でした。

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