ノンクリスチャン向けの聖書の学び会Step9

こんにちは、うさぎ飼いです。

東大の本郷キャンパスのすぐ近くにあるキリスト教系の寮、東大YMCA寮で、ノンクリスチャン向けの聖書の学び会を開催しています。

使っているテキストはこちら。

現在入手困難のため、重版希望中。

今回はStep9を学びました。3名の牧師・宣教師の先生方、1名のノンクリスチャン、5名のクリスチャンが集まりました。

Step9 救いの確信

Step9の概要

私たちが「神さまに救われた!」と感じることは確かなのでしょうか?

救いの確信という土台をどこに置く必要があるのでしょうか。

このテキストでは、救いの確信を砂のような土台の上に置いてはいけないと言っています。

砂のような土台とは、このようなものです。

  • 感情
  • 行い
  • 信仰
  • 知識

そして、揺るぎない土台を、

  • 聖書
  • 救いのみわざ
  • 聖霊

としています。そして、どんな時も揺るがない土台を神さまの上に置くことが大切ということを学びました。

信仰の必要性

砂のような土台には「信仰」が含まれています。このことについて、質問がありました。

信仰が救いの確信にならないのはなぜでしょうか?

信仰がなければ、救われたと確信できるということはできないかもしれません。みんなの回答はこんな感じです。

信仰するということは、主体が自分たちにあるということ。私たちは罪人なので、常に神さまを信仰していると思っていても、どんな時も揺るがない思いを持てるとは言い難い存在。神さまを土台にしなければブレてしまう可能性もあります。

「からし種ほどの信仰があれば・・・」と聖書に書かれているように、私たちの信仰というのは、ほんの少しでいい。ただ、絶対的に神さまに頼るということ。
完全であり確かな存在を信じて委ねることが大切。

私たちは、自分の知識や思いや行いなどで、救いの確信を確かなものにすることはできないということ。からし種とは、「ほんの少しの信仰」の象徴として書かれています。聖書箇所を引用します。

17:6
そこで主が言われた、「もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この桑の木に、『抜け出して海に植われ』と言ったとしても、その言葉どおりになるであろう。

ルカによる福音書17章6節

17:20
するとイエスは言われた、「あなたがたの信仰が足りないからである。よく言い聞かせておくが、もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この山にむかって『ここからあそこに移れ』と言えば、移るであろう。このように、あなたがたにできない事は、何もないであろう。

マタイによる福音書17章20節

このような例え話を使って、ほんの少しの信仰で、何でもできると言われています。

ただ、信仰とは失われてしまう可能性があるもので、自らの信仰というものを土台にしてしまうことは、「どんな時も揺るがない土台」とするのは難しそうです。

救いの確信は人それぞれ

このテキストでは、確かな土台を、「聖書」「救いのみわざ」「聖霊」に置くこととしています。

これはどういうことかというと、絶対的な神さまという存在を信じるということを意味しています。

ある意味で、天国に行けるかどうかの確信が欲しい!というのは、おこがましくもあり(?)、自分が本当に救われているかどうかという思いを追求するということにあまり必要性を感じる必要もないのではないかというお話もありました。

特にクリスチャンホームで育った人達は、神さまのことが当たり前になりすぎていて、激的に変えられた!とう経験がなくて悩んでいる人もいます。

救われた!と自分が感じるということは、それほど大きい意味はなく、感じる人もいれば、それほど激的な自覚はないという人もいます。

救われるとは?

では、救われるということをどのように実感したらいいのでしょうか。救われることはどのようなことであり、何のメリットがあるのでしょうか。

こんな質問をいただきました。

救われるのは、天国に行くためですか?

これは、最終的な大きな恵みの一つです。黙示録にある天国に関する記述を引用します。

21:3
また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、
21:4
人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」。

ヨハネの黙示録21章3〜4節

再び神さまが地上に来られる時に、全てを新しくし、悲しみを完全に取り去ってくれるというのです。

しかし、救われることも最も1番大事な部分は、

「イエスキリストが共に生きてくださること」です。

生きた神が共にいてくださり、私たちの全てを知っておられて、全てを与えてくれて、愛してくださる存在がいつも一緒にいてくださること。

これが、救われたということの、最も大切な部分です。再臨のあとに天国に行けるだけではなく、今この瞬間から、救われた人達は神さまに語りかけることができるという特権が与えられるということです。

神さまとの出逢い

救われる瞬間は神さまにあったと実感するときかもしれません。では、「救われた!」「神さまに出会った!」と自覚するのはどんな時なのでしょうか?

神さまとの出逢いは、聖霊の働きによって感じるものですか?

これは、ある意味で正しいです。神さまはキリスト教を全く知らない人にも語りかけてくれる存在です。聖霊の働きによって神さまという存在を教えてくれるということは往々にしてあり得ます。

例えば、こんな気持ちを経験した事はないでしょうか?

  • 自分の能力が及ばない超越した存在がいるんじゃないか
  • 自分の内面の全てを知っている存在があるのではないか

こんな風に神の存在を感じることはある人も多いと思います。ただ、イエスキリストの名によって救われるということは、これだけでは不十分です。

Step8で学んだように、信仰に至るまでには、まずは「知ること」「受け入れること」「任せること」というステップが必要です。

「知る」ということと、「聖霊の働きによる実感」の両輪を通して、信仰というものを確かなものにして進んで行かなければいけません。

うさぎ飼いも毎週教会で、「こんな聖書箇所あったんだ!」「こんな解釈があったんだ!」とクリスチャンになった今でも、そんなことの繰り返しです。

また、神さまとの出逢いは、急に訪れるものではなく、徐々に近づいていくと感じる人もいるみたいです。

自分はなんて罪人なんだと実感した時に、初めて神さまの存在意義と有り難さを実感した人もいます。人それぞれ色んな出逢い方があると思うので、色んな人の証を聞いてみたいですね。

神さまとの関わり

ここでは、救いの確信を確かなものにするには、自分の信仰ではなくて、ただ神さまの絶対的で完全な存在を信じて委ねるということでのみ、可能となるということを学びました。

そして、イエスキリストを信じると、神さまと自由に、個人的な関わりを持つことができるようになります。

神さまとの関わりは人それぞれ。一方的に神さまにとにかく祈って話して話して話しまくる人、神さまの御心は何かを聞きその答えを待ちに待っている人など。

何れにしても、神さまと自分の関わりは個人的なものであって自由なもの。どのように語りかけても関わりを持っても個人の自由。そして神さまは永遠に語りかけても永遠に聞いてくださる寛大な存在!

遠慮なく、どんどん神さまと関わり、交わりを持ちながら、救いの確信を確かにしたいですね。

オススメの聖書

今回は、洗礼を受けているけどまだ聖書を持っていない現舎生から、

とりあえず聖書を買いたいと思います!

と嬉しいお言葉が。カトリックの教会に通われる方は新共同訳がオススメです。

最近発売された協会共同訳もオススメです!

プロテスタントで、小型or大きいサイズの聖書が欲しい・・・という方は2017年新改訳がオススメです!

持ち運びに便利なのは小型、文字が見やすく書き込みがしやすいのは大型ですので、用途に合わせて揃えておきたいです。

Step10に続きます〜。

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