ノンクリスチャン向けの聖書の学び会 Step10

こんにちは、うさぎ飼いです。

東大の本郷キャンパス近くにあるキリスト教系の寮、東大YMCA寮にて、ノンクリスチャン向けの聖書の学び会を開催しています。

今月は、1名の伝道者、2名のノンクリスチャン、4名のクリスチャンのみなさんにご参加いただきました。

今回も使ったテキストはこちら。

現在品切れのため、入手困難です。重版希望中。

初めて聖書を開く人に向けた、読みやすくもポイントを抑えた良書です。今月はStep10で、いよいよ後半に差し掛かっています。

Step10 満ちあふれるめぐみ

Step10の概要

Step10では、キリストを信じることによる恵について学びました。

信じる事によって得られる恵は、

  • 義と認められる(義認)
  • 新しく生まれる(新生)
  • 子とされる

というところです。

義認は「刑罰を免れる」という意味があり、めぐみによって、正しいものとされるという意味を示しています。

新生は、新しい命を与えられる、新しい性質を持って、新しく創られる、ということです。

子とされるというのは、神の子供として新しい身分と特権が与えられ、将来への幸福に繋がる、という内容になってます。

義認について

「義認」という難しい言葉について、どのように理解を深めたらいいのかということについて、多くのディスカッションがなされました。

キリスト教を信じることによって義とされたとしても、その後罪を犯した場合などは、どのように見られるのでしょうか?

クリスチャンになったからと言って、罪を犯さないということはありません。では、一度信仰告白した人が、神さまから離れた時、神さまを冒涜した時など、再び罪を犯した時にも刑罰は免除されるのかどうかというディスカッションをしました。

一度信仰告白をした人は、神さまと交わりを持つことができる状態になっているということ。
再び罪を犯した時も神さまとの交わりの中で、再び赦されたり、自ら神さまから離れて行ってしまったり、と人それぞれで他人にはわからない。

「義認」はキリストを信じた人が得られる特権です。一度信じた!ということについて、永遠にこれからの罪が免除されるのかということについては、数字のプラスマイナスのようなカウント方法ではないかもしれないけれど、キリスト教を知り、信仰告白した人は、神さまとの交わりの中で歩むことができる者とされている、ということに変わりはないのではないでしょうか。

それを踏まえて考えると、「義認」というのは、もっとシンプルに、「キリスト教を信じる=罰を免除される」という状態を表していると捉えるのが良さそうです。

一度信仰告白をした人が、キリスト教と深く関わっていくにつれて、信仰を手放す決断をした人は、義と認められないのでしょうか?

「罪というものの本質は、神さまから離れること、信じようとしないこと」ということ、「キリスト教を信じるということで、刑を免除される」ということを考えると、一度信仰告白をしていたとしても、現在信じていない場合、神さまから離れている為「罪」の状態にあり、信じていないため「義」とされない、という解釈が出来そうです。

ただし、神さまが罪と罰を与えるという解釈よりは、人間から罪の状態を選択してしまっている状態ではないでしょうか。

何も知らないで、神さまを信じていない人と、知っていて信じないことを選択するのは、「罪」の状態が違うかもしれない。

人はみな罪人なので、罪の大きさの大小を計ることはできないかもしれません。ただ、一度キリストを受け入れ、知り、その後に信じないことを告白する人は、より神さまから離れている状態で、戻って来にくい環境になってしまっているといえるのかもしれません。

クリスチャンになってからも、信仰が揺らぐことはあるかもしれませんが、信仰告白をするということは、神さまと個人的な関係が与えられているので、その中で、歩みを進めて行くというのが、大切です。

めぐみは信じる人だけに与えられるのか

神さはすべての人を愛しておられるため、すべてのことを知っておられるはず。

罪人である私たちが、「信じた!」と思うことを、救いの確信にしてはいけないということを前回のstepで学びました。

では、私たちが「信じる」ということは、どれほど大切なものなのでしょうか。

「信じる」ということがなければ、救われないのでしょうか?キリスト教に出会わなかった人や、信仰告白の機会がなかった人、すべての人にチャンスがあるわけではないということでしょうか?

これは、多くのクリスチャンが悩むところです。ただキリスト教を知らないだけで救われないなんて・・・・、酷い話しでは?と思う人もいるかもしれません。

神さまはすべての人を愛していること、すべての人の扉を叩いていることは聖書に書かれていることなので、それに対してその人がどのようなアクションを起こしているかが重要で、それは神さまだけが知っていること。
もしかしたら神さまは、その人と個人的な関係を築けているかもしれない。

神さまは、自分のことを知らなかったからといって、そのことを理由に裁くことはないかもしれません。

神さはすべての人に働きかけいるということを信じて、その人と神さまの個人的な関係について祈ることはできますが、それ以上のことは出来ず、私たちにそれを知り得ることができません。

なので、まずは救われていないと思う人のために祈って、そして神さまに委ねる、というのが大切です。

神さまのめぐみは、すべての人に注がれていて、罪の状態というのは自ら傘をさしてしまっている状態。その傘を取り除くとめぐみを受けることができるので、「神さまがすべての人を愛している」ということと、「信じる人だけが救われる」とうことは矛盾しない。

罪は、神さまのめぐみを自ら塞いでしまっている状態とするならば、その覆いを取り除かなければいけません。

そのアクションこそが、「信じる」ということであり、救われるためにはやはり、「信じる」ということが絶対に必要になりそうです。

信じることを重んじるなら、他の宗教でもいい?

聖書に出会う機会がなかった人、信仰告白をする機会が与えられなかった人でも、神さまとの個人的な関係を築けているかもしれないということに関して、こんな質問をいただきました。

聖書を知る機会がなかった人でも救われている可能性があるなら、他の宗教を信じていても良いということが聖書に書かれているんですか?

これについては、残念ながらその記述はありません。

イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。

ヨハネによる福音書14章6節

イエスキリストを通してでなければ、神さまの所に行けないことがはっきり書かれています。

それぞれの宗教にはそれぞれの目的があって、キリスト教のめぐみを受けるために、他の宗教を利用する必要がなく、登る山が違うだけだと考えることもできる。

もし、教会に行かなくても、イエスキリストを知らなかったとしても救われている機会があるとするならば、私たちは何のために伝道したら良いのか?と思ってしまうかもしれません。

しかし、聖書には、すべての人が悔い改めて福音を信じること、福音を宣べ伝えるようにすることも書かれているので、もし伝道する機会が与えられた時には、躊躇せずに伝えたいですね。

まとめ

唯一の絶対的な神さまと、イエスキリストを信じることによって、得られるめぐみは、罪からくる罰を免除されること、新しい命が与えられることを学びました。

罪の状態は、信仰告白した後も続きますが、クリスチャンになると、神さまと交わるということができるようになるので、再び罪を犯した時も交わりの中でめぐみを回復するチャンスが与えられます。

(※ただし、どんなことをしてもいいというわけではない)

「信じる」というアクションは、めぐみを受けるために最も重要なアクションとして必要不可欠なもので、どのような宗教でもいいと聖書に書いてあるわけではありません。

一度神さまを知り、信仰告白した後、神さまと個人的な関係を深めていくと共に、神さまの栄光を伝道していくということが求められています。

今、神さまを知り、信じて、それを告白し、伝道するという聖書に書かれた言葉をそのまま捉えて実行するということが大切なのではないでしょうか。

Step11に続きます〜。

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