東大の本郷キャンパスの近くにあるキリスト教系の寮、東大YMCA寮にて、初めて聖書を学ぶ人のための会を開催しています。
3月は、伝道師の先生2名、ノンクリスチャン1名、クリスチャン2名が集りました。
使っているテキストはこちら。
この本は、祈ることについて体系的に書かれた本で、初めてキリスト教を学ぶ人でも、長い間クリスチャンだった人も広く取り組みやすい本です。
テキスト形式ではなく、章立てされている本になっています。
今回は、前回は「はじめに」を取り組み、今回は「第1章」を読みました。
質疑応答は毎回自由形式、祈りに留まらず広くキリスト教のことをディスカッションしたりします。
第1章「祈りとは何か」
概要
第1章の概要は、
- 私達は祈るために作られた
- 人間は罪の故に祈ることができなくなった
- 無力なもの(人間)の祈りを聞かれる神の存在
という内容です。
創世記の箇所から、神様が人間を自身に似せて作られたことが書かれています。
神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。
神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。
創世記1章:26〜27節
また、「祈ることができなくなった人間」というのは蛇に誘惑されたアダムとエバ「堕罪」によるものという表現があります。
これによって人は罪の性質をもってしまい、誰一人として罪人ではないものが存在しないという状態になってしまいました。
最後に、パリサイ人と取税人を例にとり、「自分で自分をいい人だと思っていないか??」とう観点から罪の性質を掘り下げ、罪を認識することの重要さが書かれています。
「ふたりの人が祈るために宮に上った。そのひとりはパリサイ人であり、もうひとりは取税人であった。パリサイ人は立って、ひとりでこう祈った、『神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、また、この取税人のような人間でもないことを感謝します。わたしは一週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげています』。ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天にむけようともしないで、胸を打ちながら言った、『神様、罪人のわたしをおゆるしください』と。あなたがたに言っておく。神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人であって、あのパリサイ人ではなかった。おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」。
ルカによる福音書18章:10〜14節
取税人のように、「神さま、こんな罪人の私をあわれんでください」という姿勢というのが、義と認められるという衝撃のお話。
行いで救われるのではない、という例え話です。
(しかし、、実際には良い行いは認めて欲しい、と思ってしまうのが人間なのですが)
祈りに関するQ&A
この本では、様々な角度から「祈り」についてみています。
今回の質問はこちら。
「神が語られることに耳を傾ける」という部分が祈りの本質なんでしょうか
祈りは神さまとのコミュニケーション、なんて言われていますが、ではどうやって神さまの語ることに耳を傾ける???聞こえませんが。という声が聞こえてきそうですが、私も聞こえません。(笑)
しかし、祈りの中で、このことを肯定的に聞いてくれているかとか、そうじゃないかということを感じたりすることもあります。
これは人と人とのコミュニケーションでも同じこと。
自分だけが喋っているけれど、相手は聞いてなさそうとか、「うんうん」とうなづいてくれて肯定的のよう、などわかる時がありますよね。
祈りも同じで、喋っているのは自分だけですが、聞かれている存在を意識することで御心を感じるということもあります。
無視されていると感じる時
聖書にもよく登場しますが、「なぜ神さまは私の祈りを聞き入れない?」という怒りにも似た告白がされます。実際祈っても祈っても答えが得られない、聞かれているような気がしないという気持ちを抱くのも、多くのクリスチャンが自覚していることでもあります。
そのことについて、一つ確実に言えることは、
神さまが祈りを聞いていないということは絶対にありえないということ。
今が時じゃないのかもしれないし、自分には必要ないものだったかもしれないし、もっと最善のものが準備されているかもしれません。
必要を必ず満たしてくれると信じ、待つこともあります。
まずは祈り信じてみよう、ということでした。
※4月の聖書の学び会は、コロナウィルス感染拡大防止対策のため中止します。みなさまにおかれましても、ご自愛くださいませ。
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