こんにちは、うさぎ飼いです。
今週は大阪のカトリック吹田教会に初参戦しました。GWということでいつもより子供の人数が少なかったみたいですが、たくさん人がいてびっくりしました。
伝統的な教会の雰囲気を味わってきました。
復活節第3主日
聖書箇所
今週の聖書箇所はヨハネによる福音書21章1〜19節。カトリックは聖書箇所が世界共通です。
21:1
ヨハネによる福音書21章1〜19節
そののち、イエスはテベリヤの海べで、ご自身をまた弟子たちにあらわされた。そのあらわされた次第は、こうである。
21:2
シモン・ペテロが、デドモと呼ばれているトマス、ガリラヤのカナのナタナエル、ゼベダイの子らや、ほかのふたりの弟子たちと一緒にいた時のことである。
21:3
シモン・ペテロは彼らに「わたしは漁に行くのだ」と言うと、彼らは「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って舟に乗った。しかし、その夜はなんの獲物もなかった。
21:4
夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。しかし弟子たちはそれがイエスだとは知らなかった。
21:5
イエスは彼らに言われた、「子たちよ、何か食べるものがあるか」。彼らは「ありません」と答えた。
21:6
すると、イエスは彼らに言われた、「舟の右の方に網をおろして見なさい。そうすれば、何かとれるだろう」。彼らは網をおろすと、魚が多くとれたので、それを引き上げることができなかった。
21:7
イエスの愛しておられた弟子が、ペテロに「あれは主だ」と言った。シモン・ペテロは主であると聞いて、裸になっていたため、上着をまとって海にとびこんだ。
21:8
しかし、ほかの弟子たちは舟に乗ったまま、魚のはいっている網を引きながら帰って行った。陸からはあまり遠くない五十間ほどの所にいたからである。
21:9
彼らが陸に上って見ると、炭火がおこしてあって、その上に魚がのせてあり、またそこにパンがあった。
21:10
イエスは彼らに言われた、「今とった魚を少し持ってきなさい」。
21:11
シモン・ペテロが行って、網を陸へ引き上げると、百五十三びきの大きな魚でいっぱいになっていた。そんなに多かったが、網はさけないでいた。
21:12
イエスは彼らに言われた、「さあ、朝の食事をしなさい」。弟子たちは、主であることがわかっていたので、だれも「あなたはどなたですか」と進んで尋ねる者がなかった。
21:13
イエスはそこにきて、パンをとり彼らに与え、また魚も同じようにされた。
21:14
イエスが死人の中からよみがえったのち、弟子たちにあらわれたのは、これで既に三度目である。
21:15
彼らが食事をすませると、イエスはシモン・ペテロに言われた、「ヨハネの子シモンよ、あなたはこの人たちが愛する以上に、わたしを愛するか」。ペテロは言った、「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです」。イエスは彼に「わたしの小羊を養いなさい」と言われた。
21:16
またもう一度彼に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。彼はイエスに言った、「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです」。イエスは彼に言われた、「わたしの羊を飼いなさい」。
21:17
イエスは三度目に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。ペテロは「わたしを愛するか」とイエスが三度も言われたので、心をいためてイエスに言った、「主よ、あなたはすべてをご存じです。わたしがあなたを愛していることは、おわかりになっています」。イエスは彼に言われた、「わたしの羊を養いなさい。
21:18
よくよくあなたに言っておく。あなたが若かった時には、自分で帯をしめて、思いのままに歩きまわっていた。しかし年をとってからは、自分の手をのばすことになろう。そして、ほかの人があなたに帯を結びつけ、行きたくない所へ連れて行くであろう」。
21:19
これは、ペテロがどんな死に方で、神の栄光をあらわすかを示すために、お話しになったのである。こう話してから、「わたしに従ってきなさい」と言われた。
弟子達の反応
12節では、弟子達が主であることをわかっていたことが書かれています。
むしろすぐにイエスだと気付き、心の中では嬉しい気持ちでいっぱいだったのではないでしょうか。
7節では、ペテロが海に飛び込むシーンがありますが、神父さまはこの訳がどうにかならないものか・・・・と嘆いていました。
というのは上着をまとって、とありますが、主に気づいて喜びのあまり飛び込む時に服を着なければならないというのは不自然ではないか?むしろ脱ぐのでは?と。(笑)
31年ぶりに発売された協会共同訳ではこの訳がどうなっているのかと、真っ先にこの箇所を見たそうですが、あまり変わっておらずがっかり・・・だったそうです。
主に従う
シモンは3度も「私を愛するか」と聞かれ、ペテロも最後には悲しい気持ちになってしまいました。
その後、弟子達の最後について話されました。これは私たちにも同じことが言えます。
最後の時に向かう時まで、主に従いなさいというメッセージでした。
コメントを残す