ノンクリスチャン向けの聖書の学び会 Step11

こんにちは、うさぎ飼いです。

東大の本郷キャンパスの近くにあるキリスト教系の寮、東大YMCA寮にて、ノンクリスチャン向けの聖書の学び会を開催しています。

今月は2名の伝道者の先生、3名のノンクリスチャンと3名のクリスチャンにご参加いただきました。

使ったテキストはこちら。

今回はStep11を取り組みました。

Step11 きよい生涯

Step11の概要

前回は「義認」というテーマでしたが、今回はその後の「聖化」という部分について話し合いました。

神のみこころは、あなたがたが聖くなることです。

テサロニケI 4章3節

私達は、神さまを信じることによって「義」とされます。

救いは神さまからの恵みによるのもであって、何かの善い行いによって救われるわけではありません。ただ、救われたから、善い行いをするものになっていきます。

義認は、信じることのみが必要で、人間の努力とは無関係ですが、聖化のためには努力が必要です。

神さまを信じて救われた人は、生きた神さまと共に歩むことができるので、聖霊の働きによって聖なるものに変えられていきます。

新しく与えられた命が、神さまによって強められ、努力をしながら時間をかけて、キリストの似姿に変えられていきます。

義認と聖化について

聖化は、義認からの流れということもあり、前回の内容も踏まえて、義認と聖化の分かちあいをしました。

義認の理解

義認に必要なことは「信じる」ということ。信じた時に義とされるとシンプルに捉えます。

一度洗礼を受けたけど、神さまから離れてしまった例など、色んな議論がありましたが、その時神さまを信じているかどうかという観点で、義認されているかどうかと判断します。

人の罪の大きさに大小があるということは聖書からは読み取れないけれど、一度神さまを受け入れて、離れてしまった人は罪が大きいのではないか?という話になったのは、「何も知らない状態で神さまを知らない人」よりも「知っているけれど離れる決断をした人」の方が、神さまとの距離が遠いのではないか、と捉えることもできます。

クリスチャンでも度々罪を犯すことがありますが、洗礼の有無に関わらず、最も根幹的な部分である「信じる」ということで「義」とされるかどうかが判断されるのではないでしょうか。

義認と聖化の過程

義認は信じた瞬間になされるものであって、聖化は努力と長い時間をかけながら徐々になされていくということですか?

義認と聖化の時間感覚は、義認は信じた瞬間になされるものであって、聖化は長い時間をかけて徐々になされていくものではないでしょうか。

どんな人でも完全にきよくなることはできないので、多くのクリスチャンは残りの人生をかけて徐々に聖なるものに近づいていくのではないでしょうか。

信仰の成長

実際にクリスチャンとノンクリスチャンに、1年前の自分と比べて、今の自分が霊的にどのように変化したと感じるかについて分かち合いました。

クリスチャン

クリスチャンは、すでに毎週教会に通っていたり、聖書を読んだり、霊的に成長している人も多いと思います。

  • 今までの自分とは違うという成長を毎年感じる
  • 洗礼を受けてから、色んな機会と長い時間をかけて恵みが蓄積されていくのを感じる
  • 自分では成長していることに気がつかないことが多いけれど、昔の友人などにあった時に、自分の中の成長や変化を感じる

といった色んな意見がありました。自分の成長というのは、毎日のことなので気がつかない人もいますけれど、実は少しずつ変えられていたということもあるのではないでしょうか。

ノンクリスチャン

このテキストを始めて約1年が経とうとしています。

ノンクリスチャンの人たちは、1年前は全くキリスト教のことを知らなかった人も少なくありません。このテキストを使って学び会を進めていくうちに、どんな心境の変化があったかどうかシェアしていただきました。

  • 心配なことがいくつかあるけれど、洗礼を受けたいという気持ちになりました
  • キリスト教のことを他の人に説明できるくらいになったことや、自分の価値観が大きく変わりました
  • 孤独感がなくなりました

などなど、予想を超えるほどの、とても嬉しいエピソードを紹介していただきました!

洗礼について

心に信じて義とされるとあるように、まずは神さまを信じることが第一に必要です。

クリスチャンになるかどうかというのは、洗礼を受けているかで判断されることが多く、洗礼に至るまでには家族のことや将来のことなど、いくつもの心配事やハードルがあることがあります。

洗礼を受けているかどうかというのは、救いの絶対条件ではなく、象徴と捉えるのが一般的な解釈ではないでしょうか。

「その死にあずかるために洗礼を受けたことを」と聖書にあり、カトリック教会でもよくそれが表現されるように、洗礼はキリストの死という大きなものとの結びつきがある、と捉えることもできるので、よく自分で考えてから決心することはとても大事という話もありました。

洗礼を受けたあとは、晴れてクリスチャンの仲間入り。神さまの家族として多くのクリスチャンが歓迎してくれるでしょう。

新たに救われた人、洗礼を受ける人が増えるのは多くのクリスチャンの喜びです。

救われることは、ゴールではなく、信仰の始まり。みんなが長い時間をかけて聖なるものとされていきますように。

Step12に続きます〜。

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