ノンクリスチャン向けの聖書の学び会 Step7

こんにちは、うさぎ飼いです。

東大の本郷キャンパスの近くにあるキリスト教系の寮、東大YMCA寮でノンクリスチャン向けの聖書の学び会を開催しています。

使っているテキストはこちらです。

このテキストは、初めて聖書に触れる人が信仰に至るまでの知識を段階的に身につけることが出来る良書です。クリスチャンでも何回読んでも考えさせられます。

今回はStep7です。2名のノンクリスチャンと3名のクリスチャン、2名の伝道師の先生に参加いただきました。

Step7 王である祭司

Step7の概要

Step7では、イエスキリストの王としての務めについてです。

イエスキリストは人々の罪のために十字架にかかって自らを生贄として捧げました。

十字架は、なだめの供え物であり、神との和解のためであり、贖いの代価と捉えることができます。

また、十字架にかかった後、3日目に復活したことから、救いの核心を確かにすることができます。

再びイエスキリストが地上に来られることを約束してくれたことが、クリスチャンにとって最も待ち望んでいることです。

神さまから捧げてくれた生贄

生贄という言葉を聞くと、罪を赦してもらう方から捧げるというイメージが強いかもしれません。

しかし、この十字架の生贄は、人々からではなく、神さまの方から与えてくださった恵です。

自分の子供を持つ親であったら、自分の息子を捧げるなんて、とんでもない・・・・と思いますよね。実際に息子さんが産まれてから、「こんなに愛する息子を捧げるなんて自分にはできない。神さまの愛はなんて大きいんだ」と自覚するクリスチャンも多いです。

自分の最も愛するひとり子を、人々に捧げてくれたということは、神さまの大きな愛の象徴とも言えます。

罪の認識について

十字架を信じることで、人々の罪が赦されるという解釈はとても難しいところです。

十字架と罪について、こんな質問をいただきました。

原罪と罪の違いはなんですか?自分に罪があると認識をすることが出来る側面がある一方で、原罪があることはどのように皆さんは認識しているのですか?

・・・・・難しい質問でした。(笑)

原罪は、最初の人類アダムが罪を犯したことで、人々に元々罪の性質が備わっているという意味で使われます。一方で、罪は、原罪からささいなことまでを含めた罪全般を指すことが多いのではないでしょうか。

どのクリスチャンも最初はノンクリスチャンです。成長していくにつれて、どんな風に罪を認識を認識していくかというのは人それぞれです。

  • 兄弟姉妹を叩いてしまった
  • 嘘をついてしまった
  • いじめを見ないふりをした

などなど、日常の場面で思ったこと、やったことをきっかけに罪を認識することがあります。

聖書を読み、自分が罪を犯したことに加えて、自分に原罪があることや自分が罪だと感じていなかったことも罪だった、と感じながら、罪と原罪の理解を深めて行く人が多いのではないでしょうか。

十字架と罪の関係

では、十字架を信じたら、自分の中に罪がなくなるのかというと、そうではありません。

十字架と罪の解釈はとても難しいところです。聖書に書いてあることをクリスチャンのが完璧に理解しているわけではないですが、みんなで意見交換ができました。

十字架は原罪が赦されるという認識だったんですが、今も持っている罪については十字架はどのように働くのですか?

難し過ぎる質問です(笑)

みんなからこんな回答をいただきました。

原罪は竹でいうところの根っこみたいなもので、切ってもまた生えてくる。切っても切っても出てくるし、完全に根から取り除くことはできない。
それを模範に向かって少しずつ変わっていくように、と力が与えられる(聖霊の働き)。

十字架を信じることで、私たちが清くなるわけではないけれども、聖霊の働きによって清いものに変えられていくという働きをしてくれます。

人間は罪深い存在なので、十字架を信じることがなければ、そもそもお父さん(父なる神)に会うことができない。十字架を信じることによって、神さまと人間を繋ぐ役割をイエスさまがしてくださるので、人間でも自由に神さまと交わることが出来るようになった。

Step7 では、イエスキリストの大祭司としての務め、王としての役割について学びました。

それは、イエスキリストが神さまから人間に与えられた捧げものであり、神さまと人間を繋ぐ架け橋であることを学びました。

聖書のことを完全に理解している人はいないと思いますが、神さまの大いなる愛を感じるということが大切なのではないでしょうか。

Step8に続きます〜。

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