こんにちは、プロテスタントのクリスチャン歴約7年のうさぎ飼いです。
東京に進学した時に、キリスト教系の寮に入り、色んな地方の色んな形でクリスチャンになった人達に会うと、その人の信仰の在り方に感動したり、色んな考え方があるな、と思わされます。
クリスチャンの最大の特権は、神さまと個人的な繋がりを持つことが出来るようになることです。
だからと言って、願いを全て叶えてくれるジーニーのような存在が手に入るわけじゃありません。笑
神さまは、個人の一人一人の願いを私たち以上に知っていて、想像以上のことを成し遂げてくれる全知全能のお方。
なので、全ての事を神さまに委ねたいと思っているのがクリスチャン。ですが、私達人間は不完全であるが故に、その計画がよくわからない時があります。
クリスチャンが御心(みこころ)に聞き従うというのは神さまに仕えること。じゃあ自分は、どのように神さまに仕えることができるのか??について考えている今日この頃です。
御心に従うとは
クリスチャンが御心に従うってどういうことだろうと、クリスチャンである私自身が考えさせられる時もしばしば。
人それぞれではありますが、大まかな共通事項はこんな感じではないでしょうか。
- 聖書にきく
- 聖霊の働きを感じる
- 祈る
- 待つ
聖書にきく
御心に従うって何だろう、とわからなくなる時、聖書を読みます。あとは毎週日曜日の礼拝で読めます。
メインの聖書箇所じゃなくて、引用に使われた箇所がとても引用にのこる事もあります。なので、クリスチャンにとって日曜日の礼拝は欠かせません。
この前の礼拝では、こんなメッセージがありました。ちょうどお金のことをあれこれ考えていた時でした・・・。
だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない。
マタイによる福音書6章24節
どの箇所を読んだら答えがでるのかわからない!!と思っても、神さまは必要な時に必要な箇所を与えてくれるんだな〜と感動。私たちに出来るのは、祈る、そして心を固くしないことなんだなと感じました。
聖霊の働きを感じる
聖霊の働きをどのように感じるかはひとそれぞれ。これは神さまが働いてくださったこと、と感じたり実感するようなことがあると聖霊の働きかもしれません。
これも大事なのは思い込みを捨てることであって、私達に出来ることというと、祈るしかないことになります。
祈って、待つ
とどのつまり、私たちに出来ることは祈って待つしかないということになります。なんという無力。しかし大胆に祈ることがゆるされてます。
ただし、神さまは全部与えてくれるから努力しなくていいわけではありません。聖書の学び会で詳しく議論しました。
神さまに仕える
神さまに仕えるというのは不思議なことで、神さまの御心にかなうように仕えることができたなら、神さま自身がサポートをしてくれるということです。
9:19
使徒言行録9章19〜30節
また食事をとって元気を取りもどした。サウロは、ダマスコにいる弟子たちと共に数日間を過ごしてから、
9:20
ただちに諸会堂でイエスのことを宣べ伝え、このイエスこそ神の子であると説きはじめた。
9:21
これを聞いた人たちはみな非常に驚いて言った、「あれは、エルサレムでこの名をとなえる者たちを苦しめた男ではないか。その上ここにやってきたのも、彼らを縛りあげて、祭司長たちのところへひっぱって行くためではなかったか」。
9:22
しかし、サウロはますます力が加わり、このイエスがキリストであることを論証して、ダマスコに住むユダヤ人たちを言い伏せた。
9:23
相当の日数がたったころ、ユダヤ人たちはサウロを殺す相談をした。
9:24
ところが、その陰謀が彼の知るところとなった。彼らはサウロを殺そうとして、夜昼、町の門を見守っていたのである。
9:25
そこで彼の弟子たちが、夜の間に彼をかごに乗せて、町の城壁づたいにつりおろした。
9:26
サウロはエルサレムに着いて、弟子たちの仲間に加わろうと努めたが、みんなの者は彼を弟子だとは信じないで、恐れていた。
9:27
ところが、バルナバは彼の世話をして使徒たちのところへ連れて行き、途中で主が彼に現れて語りかけたことや、彼がダマスコでイエスの名で大胆に宣べ伝えた次第を、彼らに説明して聞かせた。
9:28
それ以来、彼は使徒たちの仲間に加わり、エルサレムに出入りし、主の名によって大胆に語り、
9:29
ギリシヤ語を使うユダヤ人たちとしばしば語り合い、また論じ合った。しかし、彼らは彼を殺そうとねらっていた。
9:30
兄弟たちはそれと知って、彼をカイザリヤに連れてくだり、タルソへ送り出した。
これも礼拝で与えられた聖書箇所。私たちが今住んでいる所さえも、実は私たちが神さまの栄光をあらわすために用いられているということ。
そうなると、進学や仕事を通しても、その地に神さまが派遣してくれたと考えることができそうです。
こうして、神さまのサポートが得られていると実感することができて初めて、喜びをもって仕えることができると感じることができるのではないでしょうか。
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