こんにちは、うさぎ飼いです。
東大の本郷キャンパスの近くにある、東大YMCA寮というキリスト教系の寮で、ノンクリスチャン向けの聖書の学び会を開催しています。
今回も使ったテキストはこちら。
今回は、Step6でした。このテキストは全12回なので、ちょうど折り返し地点にやってきました。
Step6 あの預言者
Step6の概要
Step6はイエスキリストについて、改めて考えました。
- イエスキリストという不思議な方
- イエスは、油を注がれた方=「救い主(メシア)として神から任命を受けた方」
- 預言者としてのイエス:ことばと行いによって私達に模範を示してくれた
- イエスキリストは、私達の完全なる模範
Step4でも少しイエスが人として生まれたことについて触れられましたが、今回はイエスが救い主であること、罪のない完全な人だったと言うことについて学びました。
太宰治と芥川龍之介の最期
Step6では、聖書を熱心に読んでいたと言われる太宰治と芥川龍之介について触れられていました。
しかし、彼らはただ聖書の中からイエスの模範だけを見てしまい、最期には自ら命を絶ってしまったことが書かれています。
なぜ、熱心に聖書を読んでいながら、このような結末になってしまったのでしょうか。こんな質問がありました。
太宰治や芥川龍之介は、聖書を読んでいながらなぜこのような最期だったのでしょうか?聖書を読むにあたり、何が足りなかったということでしょうか?
みんなの回答はこんな感じでした。
聖書から、完全な模範だけを見て打ちひしがれてしまったのかもしれないけれど、自分でその模範に近づこうとしてしまったこと。
完全な模範に近付こうとしても、自分の罪深さと完全な模範との距離があまりにも遠すぎて絶望してしまう。
神さまに頼み、神さまに助けてもらいながら少しずつ近づいて行こうとする気持ちを持つことが大切。
聖書には、イエスキリストという完全な模範がありますが、それに向かって自分の力でなんとかしようと思ってしまうと、理想と現実の差に愕然としてしまうかもしれません。
自分の罪を認識すること、模範とは遠いことは全ての人に当てはまるけれど、それを神さまに委ねる気持ちを持つかどうかが大事なところです。
罪とどう向き合うか
自分の罪を自分の力で完全な模範のような状態することは到底できない、とはいえ、自分は完全な模範とは程遠い存在。
では自分の罪とどのように向かえばいいのか、こんな質問がありました。
自分の罪深い状態が模範と遠いことを自覚し、でもそれをどうすることもできない状態について、どのように折り合いをつけて考えたらいいのですか?
実際には、クリスチャンはこう、と一概には言えない部分もありますが、みんなの回答はこんな感じでした。
クリスチャンの多くは、自分がクリスチャンになった事、救われたことさえ「神さまにしてもらったこと」と考えているので、罪の状態も同じように神さまに委ねる。
全てを益に変えてくださることを信じているので、うまくいかないことも含めて神様に聞く、手伝ってもらう、助けてもらう、ということを考えながら、少しずつ模範の状態に近づけてもらうというように考える。
他力本願のような考え方に聞こえてしまうかもしれませんが、全てのことは神さまが計画したことであって、私達は神さまとの交わりの中で生きるものとして、良いことも悪いことも全て委ねる。その関わりの中で少しずつ近づいていけたら、と考えている人が多いのではないでしょうか。
私たちがどんなに罪を犯しても神さまは変わらず自分たちのことを愛してくださる存在。その愛の最たる象徴が十字架です。(ローマ人への手紙5章8節)
神さまを知らなければ
神さまに頼まなくても出来ることはたくさんある、神さまがいなくても生きていけると考える人は少なくないかもしれません。
実際には、聖書には早く信じた方がいいという記述は書かれていないことから、ギリギリ最期の最期で神さまを信じた方が楽しい人生を送れるのでは?という話は、よく話題にあがります。
しかし、神さまという全能の存在を知っていないと、他人をさばいてしまったり、憎んでしまったり、罪の状態から抜けなくなってしまいます。
「神さまに委ねる」ということが出来て初めて、隣人を愛することが出来るようになるのではないでしょうか。
Step7に続きます〜。
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