こんにちは、うさぎ飼いです。
今週の日曜日は吹田にあるカトリック吹田教会にお邪魔してきました。
復活節第5主日 新しい契約
今週は復活節の第5主日。復活節は、復活祭(イースター)から50日間のことで、カトリック寄りの表現。
聖書箇所
今週の聖書箇所はヨハネによる福音書13章31節〜35節。
13:31
ヨハネによる福音書13章31〜35節
さて、彼が出て行くと、イエスは言われた、「今や人の子は栄光を受けた。神もまた彼によって栄光をお受けになった。
13:32
彼によって栄光をお受けになったのなら、神ご自身も彼に栄光をお授けになるであろう。すぐにもお授けになるであろう。
13:33
子たちよ、わたしはまだしばらく、あなたがたと一緒にいる。あなたがたはわたしを捜すだろうが、すでにユダヤ人たちに言ったとおり、今あなたがたにも言う、『あなたがたはわたしの行く所に来ることはできない』。
13:34
わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える、互に愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。
13:35
互に愛し合うならば、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての者が認めるであろう」。
新しい契約
新約聖書は、神さまとの新しい契約、ということですが、その意味することは「互いに愛し合うこと」。
旧約では愛し合うことが求められていなかったのかというとそうではありませんでした。例えばレビ記の19章18節には、自分自身のように隣人を愛しなさい、とあります。
18 あなたはあだを返してはならない。あなたの民の人々に恨みをいだいてはならない。あなた自身のようにあなたの隣人を愛さなければならない。わたしは主である。
レビ記19章18節
これに対し、新約では「わたし(イエスキリスト)があなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」と言っています。
自分が他人を愛するという基準は人それぞれで、定まっているものではありませんでした。しかし、新しい契約では、隣人を愛するという基準が統一されました。
・・・・・とてつもなく、ハードルが上げられているのがお分かりでしょうか。
翌檜の例え
先週の聖書の学び会では、イエスキリストが完全な模範であるということを学びました。しかし、私たちは完全な模範には程遠く、しかも自分の力ではどうすることも出来ない存在です。
今回のミサでは、そのような人間を「あすなろ」という葉っぱに例えられました。
あすなろの漢字は翌檜。翌日には檜になろう?そんな事は絶対に出来ないかもしれない、でも明日こそきっと檜になろう、という思いが込められているかもしれません。
私達も、明日こそイエスキリストが私たちを愛してくれたように隣人を愛そう、と思っても、そう簡単に出来るものではありません。
しかし、次こそは完全な模範に近づこう、そのような思いを持つのが大切ということでした。
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